纒向遺跡ってどんな遺跡?
纒向遺跡
桜井市域の北部、JR巻向駅周辺にひろがる纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。
この遺跡は広大な面積を有する事や、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からである事、箸墓古墳を代表として、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳・南飛塚古墳、前方後方墳であるメクリ1号墳などの発生期古墳が日本で最初に築かれている事、農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事等、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されています。遺跡の発掘調査は1971年以降、桜井市教育委員会と県立橿原考古学研究所によって現在までに180次を超える調査が継続的に行われ、2013年には一部が国史跡に指定されたものの、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の2%にも足りず、未だ不明な部分も多く残されています。
纒向遺跡全景
纒向遺跡から出土した搬入土器
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纒向遺跡内に所在する主な古墳
箸墓古墳(桜井市大字箸中)
纒向遺跡の南側部分に位置する扇状地上に形成された全長約280mの前方後円墳で、後円部径は155m、前方部長125mで、墳丘は葺石を持ち、後円部は円形壇を含めて5段、前方部前面が4段の段築で構成されますが、前方部側面にも複数の段築の存在が想定されています。この古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓として陵墓指定され、立ち入りが制限されていますが、墳丘周辺では纒向遺跡第81次調査で前方部北裾の調査が行われ、墳丘裾とこれに伴う葺石や幅約10mの周濠状の落ち込み、盛土による堤など、墳丘に関連する施設が検出されています。さらに、後円部東南裾部における纒向遺跡第109次調査では、葺石を施した渡り堤や周濠、外堤状の高まりが確認されています。
この古墳からの出土品には、布留1式期(4世紀初め)と現存最古の木製輪鐙をはじめとして、各調査出土の土器や木製品、墳丘上において宮内庁によって採集された遺物などがあります。これには多くの土器片のほか、後円部墳頂付近で採集された宮山型特殊器台や都月型円筒埴輪・特殊壷、前方部墳頂付近において採集された二重口縁壷などがあり、築造時期は布留0式期の3世紀中頃から後半と考えられています。
箸墓古墳
渡り堤
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纒向石塚古墳(国指定史跡)(桜井市大字太田)
標高69m前後の扇状地上に立地する纒向石塚古墳は、1971年の調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、庄内0式期(3世紀初頭)の築造とされ、最古の古墳として注目された古墳です。埴輪や葺石はなく、全長約99m、後円部径約68〜69m、前方部長約31mと、全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1の纒向型前方後円墳の典型的なスタイルを持ちますが、第二次大戦中には高射砲陣地の設営のために埋葬施設とともに墳丘の上部が大きく削平されています。墳丘の構造は纒向遺跡第87次(纒向石塚古墳第8次)調査で後円部西側の一部に段築が残っている事が確認され、本来は後円部3段、前方部には段築が無かったものと想定されています。また、纒向遺跡第55次(纒向石塚古墳第4次)調査では前方部の形状と前方部前面の区画溝のほか、周濠へ水を引き込む導水溝の存在も確認されています。
この古墳からは墳丘盛土内や幅約20mの周濠から出土した多くの土器群のほか、鋤・鍬・建築部材・鶏形木製品・弧文円板などの木製品の出土が出土しており、遺物は比較的豊富にあるものの、築造時期については現在、庄内1式期(3世紀前半)とする説と、築造が庄内3式期(3世紀中頃)で埋葬を布留0式期(3世紀後半)とする説の2者があります。
纒向石塚古墳
周濠出土木製品
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ホケノ山古墳(国指定史跡)(桜井市大字箸中)
標高82m前後の河岸段丘と扇状地の境界付近に立地するホケノ山古墳は、全長約80m、後円部は3段築成で径約55m、前方部長約25mの前方後円墳です。埴輪は伴いませんが、この古墳は纒向遺跡の纒向型前方後円墳の中では唯一の葺石を有する古墳です。墳丘の周囲には幅10.5m〜17mの不整形の周濠状の掘割が確認されていますが、全周するか否かは解っていません。埋葬施設は前方部東斜面と後円部で検出されています。前方部の埋葬施設は古墳の完成後に葺石をはずして組合式木棺を据えたもので、大型複合口縁壷と広口壷が供献されていました。後円部の埋葬施設は中央から「石囲い木槨」と呼ばれる木材でつくられた槨の周囲に河原石を積み上げて石囲いを造るという二重構造を持った埋葬施設が検出され、舟形木棺が安置されていました。石囲い木槨という構造そのものは吉備や讃岐・阿波・播磨地域で散見されるものであり、ホケノ山古墳の築造に東部瀬戸内地域が大きな影響を与えていることが想定されます。出土遺物は多くの二重口縁壷や小形丸底鉢などの土器のほか、画文帯同向式神獣鏡が1面と破片化した内行花文鏡などの鏡片や、素環頭大刀1口を含む鉄製刀剣類・鉄製農工具、多量の銅鏃・鉄鏃などが出土しています。遺物や埋葬施設の構造などの年代観などから築造時期は庄内3式期の3世紀中頃と考えられています。
ホケノ山古墳
石囲い木槨
橿原考古学研究所提供
画文帯同向式神獣鏡
橿原考古学研究所提供
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勝山古墳(桜井市大字東田)
標高69m前後の扇状地上に立地する勝山古墳は全長約115m、後円部径約70m、前方部長約45m、くびれ部幅26mの規模を有する前方後円墳で、前方部はやや長く直線的に開く形態を呈しています。埴輪や葺石はなく埋葬施設の構造も解っていませんが、墳丘周辺の調査では幅約20m、深さ約1mの比較的浅い周濠が確認され、多量の遺物が出土しています。これには庄内2式期(3世紀前半)を主体とするものと庄内3式期〜布留0式期(3世紀後半)を主体とする一群があり、築造時期にも諸説ありますが特定には決め手を欠いています。纒向遺跡第122次(勝山古墳第4次)調査出土の加工材が年輪年代測定によって新しく見積もっても西暦210年頃までには伐採されていたとの結果がでたことにより、勝山古墳の築造時期もこれに近いものとする指摘も多いですが、理化学的分析では材の伐採年代は特定できても伐採から投棄までの時間の幅や、これらの祭祀が築造段階のものなのか、あるいは後世の祭祀に伴うものかがはっきりしないという多くの不安定材料を孕んだ資料での分析年代であり、木材の年代と築造年代は全く別に議論する必要があるでしょう。出土土器からの年代については現状では纒向遺跡第102次(勝山古墳第1次)調査の落ち込み最下層の土器をも含め、庄内式の古い段階から布留0式期までの幅の中で築造年代を考えるべきでしょう。
勝山古墳
U字形木製品
橿原考古学研究所提供
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東田大塚古墳(桜井市大字東田)
標高約66mの扇状地の微高地先端に立地する全長約120m、後円部径約68m、前方部長50m前後と前方部の長い前方後円墳です。この古墳はこれまでに6次の調査が行われています。この結果、墳丘周辺からは幅約21m、深さ約1.3mの周濠状遺構が確認され、
濠の中からは布留0式期新相期の土器や木製品が出土しています。また周濠外側の肩部分からは上半部を打ち欠いた東海産パレス壷を蓋に使用した大型複合口縁壷の埋葬施設が検出されています。なお墳丘の大半は盛土によって築かれたものであり、
前方部の南西部分は後世の水田開発に伴い大きく削平を受けているようです。墳丘周辺からは大阪府芝山産の安山岩の板材が少量採集されており、竪穴式石室の存在も指摘されていますが、詳細は解っていません。墳丘下において行われた下層地山面の調査では
布留0式期古相期の井戸や溝が確認され、多くの木製品や桃核、鹿角、土器などが出土しています。これら一連の調査で判明した築造前と築造後の遺構の存在から築造時期は布留0式期(3世紀後半)であることが判明しています。
東田大塚古墳
土器棺墓
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矢塚古墳
矢塚古墳(桜井市大字東田)
標高66m前後の扇状地上に立地する矢塚古墳は全長93m以上、後円部径約64m、後円部高は現状で約5mの前方後円墳です。現在前方部は殆ど見えなくなっていますが、墳丘の西南部には復元長32mの前方部が確認されています。
埴輪や葺石は無く、墳丘の大半は盛土で築かれていますが、埋葬施設の構造は一切解っていません。纒向遺跡第6次調査(矢塚古墳第1次)では、幅17〜23m、深さ約60cmの周濠が確認されています。
導水溝と周濠の接続部付近からは庄内3式期(3世紀中頃)の土器群がまとまって出土しており、築造時期の下限を示すものとなっています。
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メクリ1号墳
メクリ1号墳(桜井市大字太田)
纒向遺跡第47次調査検出の纒向遺跡で確認された唯一の前方後方墳です。標高74m前後の微高地中央に立地し、墳丘は全長28m、後方部長19.5m、前方部長9.5mで、埴輪や葺石は無く、後世の削平により埋葬施設も確認されていません。幅約4mの周濠からは多くの土器が出土しており、庄内3式期〜布留0式期の3世紀後半の築造と考えられています。
前方後円墳成立の地に前方後方墳が築造された事は興味深く、小規模な墳丘でありながら纒向型前方後円墳の企画を踏襲していることなどは被葬者の出自や階層を示しているのでしょうか。
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倒壊建物
南飛塚古墳(桜井市大字太田)
1987年の水路改修工事に伴う纒向遺跡第51次調査では、埋没古墳の周濠の一部と考えられる幅8.5m、深さ60cmの溝が検出されました。墳形は方墳あるいは前方後円墳と考えられています。
溝からは布留0式期(3世紀後半)の土器とともに建築物の壁材と考えられる木製構造物が倒壊したままの状態で出土しています。この建物は住居としての用途ではなく、祭祀行為に伴うものと考えられており、当時の建築技術のみならず古墳における祭祀を考える上でも重要な資料となっています。
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纒向遺跡内に所在する主な遺構
建物群復元案
(C)NHK/タニスタ 監修:黒田龍二
辻地区の建物群(桜井市大字辻)
辻地区において検出された
掘立柱建物と柱列からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。建物群は庄内式期の前半頃(3世紀前半)に建てられたとみられますが、庄内3式期(3世紀中頃)を含めてそれ以前には柱材の抜き取りが行われ、廃絶したと考えられています。このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇ります。近年実施された纒向遺跡第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型
土坑が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されています。
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纒向大溝
橿原考古学研究所提供
纒向大溝(桜井市大字東田)
纒向小学校の建設時の纒向遺跡第6次調査で検出されたもので、幅約5m、深さ約1.2mの大溝です。大溝は北溝と南溝の2本の溝が人の字形に合流するもので、確認されている各溝の長さは北溝約60m、南溝約140mで、庄内0式期に掘削され布留1式期(4世紀初め)には埋没しています。特徴的なのは南溝に護岸用の矢板が
打ち込まれている事と、両溝の合流点には水量の調節が可能な井堰が設けられている事です。用途としては灌漑用であるとともに物資運搬用の水路とする見方が強いものです。
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導水施設
巻野内家ツラ地区の導水施設(桜井市大字巻野内)
導水施設は纒向遺跡第50次調査で検出されたものです。中央に幅63cm、長さ190cmの大きな木製の
槽を据え、北・南・東の三方から
木樋を通して水を注ぎ、木樋から素掘溝へと排水しています。
施設の全域を調査したものではなく、全容は明らかではないですが、浄水を集めた祭祀の場と考えられています。遺構は布留1式期(4世紀初め)には廃絶しており、その設置は布留0式期新相(3世紀後半)ごろに遡る可能性が高いと考えられます。
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北飛塚地区の住居跡
北飛塚地区の住居跡(桜井市大字太田)
纒向遺跡では
竪穴式住居跡の検出例がほとんど無く、纒向遺跡第112・137・138次調査で確認されている程度です。纒向遺跡第59次調査北飛塚地区検出の住居跡は庄内3式期(3世紀中頃)に構築された一辺5mの方形の竪穴で、10cm程度の浅い掘り込みを有しています。竪穴内には4本の主柱穴と2本の補助柱穴がありますが、
炉跡や
周壁溝が無い事や補助柱穴を持つ事などは通常の住居跡とは異なる点であり、竪穴式住居では無く、掘り込み地業をともなった平屋、あるいは高屋の建物遺構とする見方もあります。
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辻土坑4の遺物出土状況
橿原考古学研究所提供
辻地区の祭祀土坑群(桜井市大字辻)
現在県営住宅が建っている部分の北部分には辻河道と呼ばれる埋没河川が確認されていますが、この河川の南岸からは21基の祭祀土坑が検出されています。いずれの土坑も湧水点まで穴を掘り下げており、内部には多くの土器や木製品が納められていました。最も遺物が豊富であったのは纒向遺跡第7次調査の辻土坑4と呼ばれる土坑で、
中に納められた祭具は後の『
延喜式』
新嘗祭の条の器材との共通点が多い事が指摘されており、一種の「ニイナメオスクニ儀礼」が行われていたものと考えられています。
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区画溝
尾崎花地区の区画溝(桜井市大字巻野内)
纒向遺跡第80次調査では布留0式期から布留2式期初め(3世紀後半〜4世紀前半)にかけての区画溝とこれに伴う柱列が検出されています。区画溝は段丘の端面に掘削されたもので、幅・深さともに約2mの規模を持っています。また、溝の外側には
土塁があり、約1.6mの間隔で柱が立てられていました。
これらの施設は纒向遺跡内でも特殊な役割をもった施設(居館・倉庫群など)を一般地域から遮蔽するための施設と考えられるものであり、内側にあたる東側の調査が期待されています。
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纒向遺跡内で見つかっている主な遺物
木製仮面
メクリ地区の木製仮面(桜井市大字太田)
纒向遺跡第149次調査において朱塗りの盾や鎌柄などの多数の遺物とともに庄内1式期(3世紀前半)の土坑から出土したもので、長さは約26cm、幅約21.6cmを測ります。
アカガシ亜属製の広鍬を転用して作られたもので、口は鍬の柄孔をそのまま利用していますが、両目部分は新たに穿孔しており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現も施されています。
また、眉毛は線刻によって表現されています。木製の仮面としては国内最古のものです。
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弧文石
東田地区の弧文石(桜井市大字東田)
纒向遺跡第36次調査で検出された溝の上層から出土したものです。重さは24.25gで、粘板岩製とみられますが、施文の残る面は長辺4.7cm、短辺2.8cm程度しか残存しない小片のため、本来の形状は解っていません。
施文面を観察すると写真の下部から左側部分にかけては施文の基準となる4本の線が引かれたままで、彫刻が施されていない部分が残る事から、製作途中で何らかの理由により廃棄されたものと推定されます。庄内3式期から布留0式期のものと考えられています。
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ベニバナ花粉
李田地区のベニバナ花粉(桜井市大字太田)
纒向遺跡第61次調査で確認された庄内3式期(3世紀前半)のV字溝の埋土より検出されたもので、国内では最古の事例となります。ベニバナの用途には染料や漢方薬・紅などがありますが、纒向遺跡のものはその花粉量の多さから溝に流された染織用の染料の廃液に含まれていたものと考えられています。
ベニバナは本来日本には自生しない植物で、染織など当時の最新技術を持った渡来人とともに伝来したとみられ、纒向遺跡の首長層が大陸系の高度な技術者集団を抱えていたことが窺える資料といえます。
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韓式系土器
弧文板
家ツラ地区の弧文板と韓式系土器(桜井市大字巻野内)
導水施設へと水を供給する大溝の下部には布留0式期古相(3世紀後半)のV字溝が存在しています。弧文板は纒向遺跡第50次調査、韓式系土器は第90次調査においてこの溝より出土したもので、
導水施設より古い段階の祭祀に使用されたものと考えられています。弧文板は欠損もあり、本来の形状はわかりませんが、黒漆で仕上げた優品です。韓式系土器には格子目のタタキを持つもの(左)とミガキによって光沢を持つもの(右)の二種がありますが、ミガキを施す個体は
楽浪系の土器ではないかと考えられています。
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辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纒向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。銅鐸の飾耳は突線鈕式銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。特殊埴輪は都月型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものです。
銅鐸飾耳
橿原考古学研究所提供
特殊埴輪片
橿原考古学研究所提供
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銅鐸片
辻地区出土の銅鐸片(桜井市大字辻)
纒向遺跡第168次調査では、古墳時代後期の包含層から銅鐸の
鰭の破片が1点出土しています。破片は長さ3.7cm、幅3.2cm、重量13.14gの小さなものですが、鰭の大きさから推定すると、本来は比較的大型の突線鈕式銅鐸の破片と考えられるものです。
調査区周辺では西約100mの地点において昭和47年に実施された纒向遺跡第7次調査地からもほぼ同様の大きさに復元される突線鈕式銅鐸の飾耳の破片が出土しており、今回の銅鐸片との関係が注目されています。
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巾着状絹製品
尾崎花地区の巾着状絹製品(桜井市大字巻野内)
纒向遺跡では数少ない絹製品です。纒向遺跡第65次調査で検出された幅約4.8m、深さ1.7mの溝から出土したもので、布留0式期新相から布留1式期古相(3世紀後半から4世紀初め)のものと考えられています。天蚕によって作られた平織りの絹布で何かを包んだ後、撚りの浅い植物質の紐(麻類)で口を結んでいます。大きさは高さ約3.4cm、厚みは2.4cm。近年の調査では巾着は漆によって固められ、中には空洞部分があることが解りましたが、内容物が何であるのかは解っていません。
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木製輪鐙
箸中地区の木製輪鐙(桜井市大字箸中)
木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20〜25pの植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
輪鐙はアカガシ亜属の材を用いて作られていますが、輪の下部を欠損しています。現存長は16.3p、最大幅10.2p、柄の部分は上部がやや開き、他の輪鐙の類例よりは若干長めのものです。柄の長さは11.2p、上方幅3.2p、下方幅2.6p、厚さは1.5p程度で、柄の上部には縦1.5p、横1pの縦長の
鐙靼孔があけられていますが、孔の上部から柄の上端にかけては鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1p程度の摩耗痕が認められ、この鐙が実際に使用されていたものであることを物語っています。
輪鐙が出土した植物層には土器片と少量の加工木が含まれ、輪鐙の所属時期は層位やこれらの遺物の年代観から布留1式期(4世紀初め)の国内最古の事例と考えられています。
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鶏形埴輪
冠帽形埴輪
坂田地区の埴輪群(桜井市大字巻野内)
纒向遺跡第42次調査の坂田地区の落ち込みの中からは多くの土器片・埴輪片が出土しています。その内訳は鶏形埴輪1点と大型の
朝顔形埴輪が2点、
冠帽形埴輪が1点あり、当然出土するはずの
円筒埴輪が1点も出土していないことは特徴的といえます。このうち鶏形埴輪は最古・最大級の大きさを誇るもので、
冠帽形埴輪については黒塚古墳・勝山古墳出土のU字形鉄製品・木製品との形態的共通点も多く、近年注目を浴びている資料です。共伴土器より埴輪の廃棄時期は布留1式期(4世紀初め)と考えられています。
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その後の纒向遺跡
箸中イヅカ古墳
橿原考古学研究所提供
箸中イヅカ古墳(桜井市大字箸中)
国道169号線のバイパス設置に伴う纒向遺跡第121次調査で確認された古墳です。墳丘はすでに削平されており、地表には全くその痕跡を残していませんでした。墳形は前方後円墳で、
馬蹄形周濠を持つと考えられており、後円部の直径は45〜50m、全長は100mを超える大きなものと想定されています。
確認された周濠の幅は10m前後で、多くの埴輪や木製品・土器などが出土しており、築造時期は4世紀後半と考えられています。纒向遺跡では箸中ビハクビ古墳と並んで数少ない4世紀代の古墳のひとつです。
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箸中ビハクビ古墳
箸中ビハクビ古墳(桜井市大字箸中)
店舗の建築工事に先立つ纒向遺跡第112次調査で確認された古墳で、地表にはその痕跡は残されていませんでした。古墳の全容はわかりませんが、直径20m前後の円墳、もしくは前方後円墳の可能性もあります。周濠の幅は約3mで、墳丘上からは原位置を保った5本の円筒埴輪の基底部が出土しています。
また、墳丘の下層からは布留0式期の竪穴式住居跡が1棟検出されており、箸墓古墳との関係が注目されています。なお、古墳の築造時期は埴輪の年代観から概ね4世紀末頃のものと考えられています。