発掘調査情報
纒向遺跡の発掘調査情報を紹介します(第193次調査まで)
纒向遺跡第193次調査 ―纒向遺跡の墓地を発掘する―
調査区遠景(北から)
纒向遺跡第193次調査はJR桜井線巻向駅の南西側、箸墓古墳の北約500m地点で行いました。調査地は元々小学校用地で、学校移転後に一部発掘調査が行われ、前方後方墳(メクリ1号墳)が見つかっています。
その後用地の大半は史跡に指定されました。桜井市では現在史跡の整備を進めており、遺構残存状況を確認することなどを目的に発掘調査を行いました。
その結果、方形周溝墓と呼ばれるお墓の跡などが見つかりました。方形周溝墓は名前通り方形で周囲に溝が巡る墓です。墓は後世に削られ、溝の痕跡だけが残っていました。大きさは最大一辺約9m程度で、纒向遺跡にある前方後円
3基の方形周溝墓(トーン部分)(上が北)
墳の箸墓古墳(全長約280m)や纒向石塚古墳(全長約99m)と比べて小さいものです。いずれも出土土器から3世紀頃に築かれたと考えられます。
またかつての発掘調査で見つけられていなかった、メクリ1号墳の東側をめぐる濠にたまった土の可能性がある土層も検出しました。確実ではありませんが、メクリ1号墳の大きさについてより詳細な情報を得ることができました。
調査地周辺ではこれまでにも方形周溝墓が見つかっており、今回の調査分を足すと計6基の方形周溝墓と前方後方墳が密集する墓地であることが明らかになりました。墓は単なる埋葬施設というだけではなく、当時の社会の仕組みを反映していると考えられます。前方後円墳より小さく墳墓の形もことなる方形周溝墓や前方後方墳に葬られた人々は、前方後円墳に葬られた人よりも社会的地位が低かったのでしょう。そうした階層性の強い社会があったことをあらためて示す調査成果となりました。
現場では毎日箸墓古墳を見つつ調査をしていましたが、小
さな墳墓の被葬者や造墓者は、大きな前方後円墳にどんな
感情を抱いていたのか気になるところです。
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纒向遺跡第190次調査(茶ノ木塚古墳第1次)
茶ノ木塚古墳(手前)、ホケノ山古墳(中央右)と三輪山(北西から)
箸墓古墳やホケノ山古墳がある桜井市大字箸中は、市内でも古墳が多いところとして知られています。付近を歩くと、田畑の中に高まりとして残るいくつもの古墳を観察できますが、実はこれらの古墳は未調査のものが多く、その半数以上は墳丘の形や規模、築造時期がわかっていません。ホケノ山古墳のすぐ北側に位置する茶ノ木塚古墳もまた、そうした古墳の一つでした。
茶ノ木塚古墳における初の発掘調査である第190次調査は、平成29年2月に、墳丘の北西側で実施されました。その結果、現存する高まりから8m余り離れた位置で墳丘の端が確認されました。これにより本来の墳丘規模は、現状よりもかなり大きく、30m前後かそれ以上と考えられるようになりました。このほか葺石や埴輪の存在も初めて明らかになりました。埴輪は円筒埴輪や蓋形埴輪が確認されており、その特徴から茶ノ木塚古墳は5世紀後半頃に築造されたことが判明しました。
周濠内に転落した葺石石材と埴輪
纒向遺跡では古墳出現期である3世紀代の大型古墳の存在が注目されますが、いっぽうで5世紀後半以降の中小規模墳が多く築造されていることがわかりつつあります。これらの古墳は大規模集落が衰退したのちの纒向遺跡を考える上で重要な意味を持つものであり、茶ノ木塚古墳はその新資料として加えられることとなります。
今回の調査はきわめて小規模なものでしたが、茶ノ木塚古墳の一端を捉えることができました。今後のさらなる調査により、古墳の全体像が明らかになることが期待されます。
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纒向遺跡第189次調査
調査区全景(北から)
纒向遺跡は桜井市の北部に広がる、東西2q、南北1.5qと広い範囲を持つ3世紀から4世紀にかけて栄えた集落遺跡です。
今回の調査は大字巻野内でおこないました。調査の結果、調査区内の半分以上の範囲を占める落ち込みが見つかりました。落ち込みの埋土には流水していたと考えられる砂や石の層が確認でき、多くの土器が出土しています。この遺構が見つかった場所は、古地形で復元されている纒向川河道(辻河道)上に位置していることから、旧河道である可能性が考えられます。堆積した時期は、確認できた中で一番古
落ち込み2土器出土状況(南から)
いのが古墳時代前期であり、最上層は平安時代ごろに堆積したことがわかりました。時期は不明ですが、この落ち込みからは土器の他にも鉄滓が多く出土しており、鞴羽口片もみつかっていることから、近くには鍛冶工房が存在していた可能性が考えられます。
周辺の調査では「宮内」と書かれた墨書土器などが見つかっており、身分の高い人々が存在していた可能性が指摘されています。今回も奈良三彩片など一般集落ではあまり見られない土器が出土しており、古代の官道である上ツ道に近接していることから、調査地周辺が身分の高い人々が暮らしていた地域である可能性が高まりました。
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纒向遺跡第187次調査
調査区全景(北西から)
纒向遺跡第187次調査は平成28年3月に行ったもので、纒向遺跡の東寄りの丘陵地上、珠城山古墳群と渋谷向山古墳の間を画する谷沿いでの調査となりました。調査地周辺は、かねてより布留式期の纒向遺跡の中心域と想定されていた場所にあたり、今回の調査でも古墳時代前期の遺構が検出されることが期待されました。
調査の結果、明確に古墳時代前期といえる遺構は確認できませんでした。しかし、出土した須恵器の年代から古墳時代後期以降と考えられる柱穴を調査区の西寄りで複数確認しました。ここで見つかった柱穴の中には、径約50cm、深さ約25cmと規模が共通しているものがありました。これらの同規模の柱穴は約2m間隔をあけ、東西3基、南北3基で並んでいます。そこから推定すると、少なくとも2間以上×2間以上の北西方向に軸を振った構築物が存在していたようです。
調査地の南側には、古墳時代後期に築造された珠城山古墳群が存在しています。今回検出された柱穴群の詳細な時期を決定することは難しいですが、古墳時代後期以降の遺構が確認され、今後の調査の進展により、珠城山古墳群と関係するような遺構や、古墳時代以後の遺構などが周辺で見つかっていくことが期待されます。
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纒向遺跡第186次調査
第1トレンチ葺石検出状況(北西から)
第186次調査は、桜井市と天理市の市境付近に所在する二反田古墳の第1次調査として、平成28年1月から2月にかけておこないました。調査地は纒向遺跡の集落範囲の北端付近
にあたり、周辺には勝山古墳や纒向石塚古墳など纒向古墳群が築造されています。二反田古墳は以前から古墳と認識されていましたが、これまで調査はおこなわれていませんでした。そのため今回の調査では古墳の墳形や規模、築造時期を明らかにすることが期待されました。
二反田古墳は現況で一辺約20m、高さ約2mの高まりが残っています。墳丘から北西方向に第1トレンチを、墳丘の西側に東西方向の第2トレンチと第3トレンチを設定し調査をおこないました。
葺石 調査の結果、すべての調査区で原位置を保った状態の葺石を検出しました。葺石には拳大の石が使用されており、最下段ではおよそ50cmの基底石を検出しました。基底石は、第1トレンチでは北東−南西方向に続いており、第2トレンチでは北西−南東方向に続いていました。第3トレンチについては、上面検出で留めたため基底石の正確な位置は確認していませんが、
第2トレンチ葺石検出状況(西から)
第1トレンチと第2トレンチを結ぶ延長部分で周濠上面を検出しており、葺石の裏込めも確認されました。
周濠 第2トレンチでは周濠の外側の立ち上がりを確認することができ、周濠の幅がおよそ5.5mであることがわかりました。しかし、第1トレンチの調査区内では周濠の外側の立ち上がりを確認することはできませんでした。トレンチ内で確認できた周濠幅はおよそ4.5mで、北東隅で緩やかに地山が上がっていき、調査区外に続く模様です。このことから、第1トレンチ周辺の周濠は、第2トレンチで確認した周濠幅とほぼ同じ規模ではないかと推測できます。
出土埴輪 今回の調査では多くの埴輪が出土しました。出土した埴輪の多くは鰭付楕円筒埴輪であると考えられます。透孔は確認できているもののほとんどが方形のものでした。突帯剥離部には方形刺突が施されており、一部は長方形の刺突を持っています。鰭部については、突帯が両面に及ぶものと片側のみのもの、突帯を貼り付けないものといった多様な種類が確認できました。出土した鰭部の中には、上部が反りあがっている翼状のような形態のものも出土しています。また埴輪の一部には赤色顔料が塗られているものも出土しました。その他にも、壷形埴輪や形象埴輪も少数ですが出土しています。
今回の調査では3つの調査区ともに葺石を検出することができました。上部の削平された部分以外は良好に残っており、北西から西側の正確な墳丘裾部を確認することができました。なお今回は古墳の北西側の調査だったため、東側や南側がどれだけ削平されているかはわかりませんが、現況の残存している東側の墳丘裾から葺石の基底石までの距離が30mになることから、墳丘規模が30m以上の方墳であった可能性があります。また古墳の築造時期については、出土した埴輪から古墳時代前期中葉頃と考えられます。
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纒向遺跡第183次調査
第183次調査区(上が北)
第183次調査は、平成20年度から行われている範囲確認調査の9回目の調査で、平成26年10月から平成27年2月にかけて行いました。
今回の調査の目的は、これまでの範囲確認調査で検出した、庄内3式期以前(3世紀中頃以前)の計画性が高い建物群(建物B・C・D)よりも東側の遺構の状況を確認することです。建物群の東側を調査するのは2回目で、平成25年度に実施した第180次調査地点の東隣にあたります。出土遺物の整理作業を経ていないため、現時点で各遺構の厳密な時期決定を行うことは困難ですが、調査段階での所見に基づいて解説したいと思います。
調査の結果、主要な遺構としては1棟の建物と溝、土坑を検出しています。検出した建物(建物H)は、調査区の南半で検出した小規模な掘立柱建物です。中央に柱のない側柱建物で、東西2間(約4.4m)、南北2間
(約4.4m)の平面正方形となります。また、建物Hの南北には一辺約0.4〜0.5mを測る長方形の柱穴が建物Hに平行して東西に並んでおり、建物に関連する柱列の可能性があります。建物Hは他の遺構との切り合い関係から、布留0式期(3世紀後半)に作られ、且つ壊された建物と考えられ、建物B・C・Dよりも新しい時期の建物と言えるでしょう。方位は真北に対し約7〜8°東に傾いてお
建物H(北西から)
り、東西溝SD-1006の振れ角とよく似ています。
東西溝SD-1006は、調査区北側で検出した東西溝で、第180次調査でみつかったものの続きとなります。幅約1.5m、深さ約0.7m。検出した長さは21.5m以上をはかり、さらに調査区外へと続いていきます。出土した土器から布留0式期(3世紀後半)に埋没したものと考えられます。建物Hと平行し、出土土器の時期も近いことから両者は共存する可能性があります。
斜行溝SX-1001は、調査区を北東―南西方向に斜行する溝で、調査区外にさらに続いていきます。第180次調査でも検出していましたが、掘り下げての調査をほとんどしておらず時期や形状がわかっていませんでした。
今回一部を溝の底まで掘り下げた結果、幅が約3.2m前後、深さ約1.0mをはかる断面台形の溝であることがわかりました。埋没時期は土器からみて庄内2式期(3世紀前半)を遡らないと考えられます。SX-1001の南西側の延長線上はこれまでに第168次・第173次調査で発掘調査を行っていますが、溝の延長部分は検出していません。そのため途中で止まるか、屈折するものと考えられます。
卜骨
土坑SK-1005は楕円形の土坑で、長径約2.2m、深さは約1.1mをはかります。土器から布留0式〜1式期
(3世紀後半から4世紀初頭)にかけて埋没した遺構であると考えています。この土坑の下層から卜骨が1点出土しています。
卜骨はイノシシの右肩甲骨を素材とするもので、若い成獣の骨を用いています。肩甲骨を削って平坦にし、焼く箇所を薄く削った後に点的に焼いています。現状で長さは約16.7cm、幅は約6.7cmをはかります。
古墳時代の卜骨の事例は珍しく、纒向遺跡でどのような祭祀がおこなわれていたのか、具体的に知ることができました。
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纒向遺跡第182次調査
1・2区全景(上が南)
纒向遺跡第182次調査は平成26年の夏に行った発掘調査です。調査場所は大型建物を含む建物群の北西側に位置します。
今回の調査ではこれまで遺構の状況が不明であった、建物群よりも北側の状況、特に建物群が建っている微高地から北の谷部を確認することを目的としました。
微高地より1段低い谷部分を中心に、一部微高地にかかるよう調査地を2箇所設定しています。南北に長い約3×30mの調査区を1区、東西に長い約5×14mの調査区を2区と呼んでいます。調査面積は1区と2区を合わせて165uとなります。
調査の結果、1区、2区ともに1段低くなった谷部分ではほとんど遺構が認めることができませんでした。遺構が密集して認められる微高地上とは全く異なる状況であることが判明しました。
1区の北半では北に落ち込んでいく地形も捉えることができました。これまでの調査では、微高地の北側には古墳時代から古代にかけての川の跡が見つかっています。今回見つかった落ち込みはこの川に向かって下ってゆ<地形をとらえたものと考えています。
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纒向遺跡第181次調査
北調査区全景(東から)
本調査は平成25年11〜12月にかけて纒向遺跡の北部にあたる大字草用地内で行われました。この付近は現在、南北とも東西に流れる水路に挟まれており、古くからも河道に挟まれていた地域だと推測されています。
南北2箇所に調査区を設けたところ、南調査区では中世頃の東西に流れる河道跡、北調査区では、溝や土坑などを発見しました。北調査区の土坑は古墳時代中期のもので、湧水層まで掘削されていることから井戸の可能性があります。中からは土師器甕、高坏などが出土しています。溝のうち南北方向にのびる2条の溝は、同規模で、一定の間隔で平行に掘削されていることから、耕作に関するものだと思われます。溝からは土師器皿や瓦器が出土しており、中世の遺構だと思われます。
今回の調査区では纒向遺跡の最盛期である3世紀代の遺構をみつけることができませんでした。遺物も他の地点に比べて非常に少ないものでした。3世紀の集落の中心からは離れていることや、河道が近いこともあって、この地域が居住地としてあまり利用されなかったと考えられます。古墳時代中期になると土坑などの遺構が散見されるようになり集落域として利用され始めたと考えられます。おそらく地形からみて、調査区よりさらに北側が集落の中心となるでしょう。
その後、古代から中世にかけて、荘園開発が盛んとなると、この周辺一帯も耕作地として開発されたと思われます。このように調査によりこの周辺の土地利用の状況が確認できた事は大きな成果でした。
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纒向遺跡第180次調査
第180次調査区全景(上が北)
纒向遺跡第180次調査は、平成20年度から行われている範囲確認調査の7回目の調査で、平成25年10月から平成26年2月にかけて実施しました。
今回の調査の目的は、これまでの範囲確認調査で検出した3世紀中頃以前(庄内3式期以前)の計画性が高い建物群(建物B、C、D)よりも東側の遺構の状況を確認することで、一連の範囲確認調査では初めてJR桜井線の東側を調査することとなりました。なお、出土遺物の整理作業を経ていないため、現時点で各遺構の厳密な時期決定を行うことは困難ですが、調査段階での所見に基づいて解説したいと思います。
調査の結果、主な遺構としては2棟の建物と溝、柱列が検出されました。建物のうち建物Fは、東西2間(約3.4m)かそれ以上、南北3間(約6.7m)を数えます。真北に対しておよそ4〜5°西に振るという建物の振れ角は、3世紀中頃以前(庄内3式期以前)の建物B・C・Dとほぼ平行するものであり、また中軸線を一致させることから、建物B・C・Dと共存していた可能性が考えられます。
建物Gは、南北2間(約4.2m)をはかりますが、建物の大部分は調査区外西側へ展開すると考えています。その場合東西の柱間は2.8m以上となるでしょう。北端の柱穴が3世紀末〜4世紀前半の溝に壊されており、それ以前の建物と考えられます。真北に対して西に約16〜18°振っており、これまで検出している3世紀中頃以前の建物群や170次調査で検出された3世紀後半以降の建物(建物E)とは異なる方位をもちます。
溝・柵列のうち、溝SD-1001・1002と柵列2は建物Eと角度を一致させており、かつ溝の埋没年代(3世紀後半から4世紀前半)と建物Eの年代(3世紀後半以降)に矛盾がないことから共存していた可能性も考えられます。この推定が正しければ纒向遺跡辻地区には3世紀中頃以前の建物群以降にも建物と区画施設があることを示すものと考えられます。
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纒向遺跡第179次調査
調査区全景(南から)
纒向遺跡第179次発掘調査は、東田大塚古墳の西約200mの地点、東田集落内で実施された発掘調査です。調査の結果、近世以降の溝、暗渠、土坑、流路跡などが見つかりました。溝はトレンチの南側を東西に走っており、その北側の肩には竹を用いた柵が設置されていました。暗渠はこの溝より新しいもので、地面を深く掘り下げ、竹を設置したものです。いずれも、近世頃の集落に関わる遺構であると想定されます。
なお、調査地周辺は纒向遺跡の西端にあたると考えられており、今回の調査では古墳時代における纒向遺跡の集落範囲の確認が期待されましたが、調査を通して古墳時代 まで遡る遺構の発見はありませんでした。古墳時代の遺物の発見もほぼなかったため、調査地周辺は古墳時代の纒向遺跡の範囲を外れている可能性が考えられます。
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纒向遺跡第176次調査
第176次調査で見つかった4世紀の区画溝(西から)
桜井市では前年度に引き続き、纒向遺跡の範囲確認調査をおこないました。第176次調査は平成20年度から着手しました一連の範囲確認調査の第6回目の調査となります。稲刈りが終わった平成24年11月から調査を開始し、翌年の3月まで調査をおこないました。これまでの調査で、居館域には3世紀前半の方位や中軸線を揃えた計画性の強い建物群と、建物群に付属すると考えられる遺構が確認されています。今回の調査の主な目的は、@これまで検出している建物群の西側にどのような遺構が広がるのか確認することと、A建物群を含む居館域全体を区画する施設を確認することでした。
今回の調査では、広い面積を効率的に調査するため、5ヶ所に分散して調査区を設定しています調査区は1〜5区と命名しています。
1区は、第20次調査地(昭和53年)と重複して設定しており、これまで建物群が検出されている第162次調査地・第166次調査地の西側にあたります。桜井市教育委員会では、第20次調査で検出されていた柱穴の一部が一連の範囲確認調査で検出した建物B、C、Dと方位を合わせることから、東
1区の柱穴群(南から)
西が3間(約5m)、南北約8.3mの建物(建物A)の存在を推定していたため、建物群の確認および居館域西側遺構の状況を確認することを目的として調査を行いました
。結果的に、建物Aの柱穴推定位置からは柱穴は認められず、想定していた形状の建物は認められませんでした。しかしながら、1区には多数の柱穴が確認できることから、何らかの建物遺構が存在する可能性が考えられます。建物遺構の構造については、調査面積の制約などから今回の調査では明らかにできていません。
また、1区の東側では、井戸とみられる遺構を検出しました。井戸は新古2度掘削されており、古い井戸(SK-3001B)
1区の井戸(北から)
は最下層に植物製の籠を設置していました。新しい井戸(SK-3001A)は古い方の井戸の埋没後に掘削されており、
縦板を用いる木枠と掘形(木枠と掘った穴の間を埋める土)をもつ構造であったと考えられます。 2つの井戸の時期については、土器から廃絶時期が布留0式期で、掘削時期は布留0式を含めそれ以前と考えられます。なお、この2つの井戸が3棟の建物群(建物B、C、D)と伴うかどうかは明らかではありません。
2区から5区では、3世紀前半の居館域全体の区画施設検出を目指し、これまでの調査地の南西側でおこないました。3世紀前半に遡る遺構は認められなかったものの、4世紀中頃から後半の大規模な東西溝が検出されました。これは建物Dを壊す4世紀中頃から後半の南北溝と組み合って、微高地を区画する施設と考えられます。この溝が何を意味するのか明らかではありませんが、各地の似た例から、首長居館を囲う溝の可能性が考えられます。同じ地点に複数の時期にわたって居館が造営されているとすれば、この土地が居館の造営に適した立地であったことをうかがわせるものです。
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纒向遺跡第175次調査
第175次調査西区(北から)
纒向遺跡第175次調査は、176次調査1区の西側に接し、1段下がったところで、平成24年9月におこないました。北に隣接する纒向遺跡第21次調査では東側に肩をもつ流路が確認されており、時期不明ですが、東側の建物群の西限を画する南北溝のような遺構の可能性が指摘されていました。
今回の調査では、176次調査1区の西の1段下った箇所の遺構の様子を把握することと、21次で想定された南北溝の西肩を確認するために2箇所トレンチを設定し、調査を行いました。調査区は西側を西区、東側を東区と名付けてい
第175次調査東区(北西から)
ます。
西区では、3世紀後半に埋没したとみられる流路が見つかりました。21次調査で検出した流路と同じ流路を検出した可能性がありますが、西肩は検出できませんでした。
東区では、西区とは対照的に流路は見つからず、いくつかの穴が見つかっており、その一つは3世紀後半の穴であることがわかっています。176次調査区1区のすぐ西側ですが、遺構の数は多くはなく、後世に削られているものと考えられます。
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纒向遺跡第174次調査
第174次調査区全景(北から)
花粉の襲来もようやく終焉を迎える平成24年4月半ばに纒向遺跡第174次調査は始まりました。調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点です。この調査地の東側で行われた発掘調査では、古代や古墳時代の旧河道(埋まってしまった川の跡)が見つかっており、今回の調査地はその旧河道の延長上にあたっていました。そのような理由で、当初は遺構や遺物が纒向遺跡の中でも比較的少ない地域と考えていました。
しかし、重機で表土や耕作土を取り除くとあらわれたのは土器を多く含んだ真っ黒な土。纒向遺跡でこの土がみつかると、土器や遺構が見つかることが大きく期待されます。当初持っていた先入観を捨て、遺物や遺構の検出に励むことにしました。
出土した遺物を清掃しているところ
調査の結果、浅い土坑や小規模な溝を検出したにすぎませんでしたが、約60uの小さな調査範囲からコンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを示す
鞴(炉に空気を送り込む道具)の
羽口や
鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。鉄器はその当時では貴重なもので、纒向遺跡の中でいつ・どのくらいの規模で鉄製品の生産が行われていたか解明していくことが今後必要になっていきます。
5月の半ばには発掘調査が終了し、現在は出土した遺物
を整理し、そこから読み取れる人々の歴史について考えています。
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纒向遺跡第172次調査
第172次調査で見つかった遺構
纒向遺跡第172次調査は桜井市大字東田の纒向小学校の北側で、平成23年8月から9月にかけておこないました。長さ8m×幅6mと狭い調査範囲でしたが、古墳時代の遺構を確認しました。
いまから約40年前、調査地の南側にある纒向小学校を建設する際に行われた発掘調査では、幅5mもある人工の溝「
纒向大溝」が発見されています。纒向大溝は纒向遺跡が栄えた3世紀に交通や農業用水路の大動脈として機能していたのではないかと考えられています。今回の調査地は纒向大溝の北側の延長線上に近いため、関連する遺構の発見が期待されました。
発掘調査の結果、現在の地表面の約1.5m下から、5世紀の溝と、3世紀の溝や土坑(穴)を確認しました。3世紀の溝や土坑からはたくさんの土器が出土しました。土器には
煤やオコゲのつくものもあるので、煮炊きに使われた後に捨てられたものと考えられます。ただし、纒向大溝の続きのような大きな溝は発見されませんでした。
5世紀の溝からは木製の
鋤(スコップ)や米などを蒸すための
甑、木製の建築部材のほか、古墳の上にたてられる埴輪の破片が出土しました。調査範囲が狭く確実ではありませんが、埴輪が出土したことから5世紀の溝は古墳のまわりをめぐる周濠の一部である可能性があります。古墳の盛り上がった墳丘は後世に削られてしまい、溝だけが残ったのかもしれません。
今回の調査では纒向大溝の続きは発見できませんでしたが、古墳時代の人々がおこなった様々な活動の痕跡を確認できました。これらは纒向遺跡の理解を一層深めてくれるものと言えるでしょう。